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キルギスタンの首都ビシュケクに着いたのは三月の末、長く厳しかった冬を抜けて待ちに待った春の訪れをようやく感じ始めた頃あいであった。私は長い中国の道の前にここで少しまとまった休息を取ることに決めていた。その間にイランから旅を共にした相方とは別れ、目にも止まらぬ勢いで街は鮮やかな緑に包まれていった。まるで乾ききった体をたっぷりの水で潤すように、思いきり暖かい日差しと新緑の匂いを吸い込むと一気に心が安らいだ。冬の生命の感触に欠けた風景がどれだけ人間の精神を脅かすのかということを今回の旅で初めて思い知った。私は光や色彩、温度といったものに長らく飢えていた。

ビシュケクの東にイシク・クル(Ysyk-Köl)という湖がある。いくつもの高い山々に囲まれており、湖面標高は世界第二位の1,606m。面積は琵琶湖の約9倍、周長にして688kmもある。標高のわりに冬でも凍結しない(漢字では「熱海」と書かれる)、流れ込む川だけで流れ出るものはない、湖底に遺跡が発見されたなどの謎も多い。私は休息の間にこの湖へ小旅行に出かけることにした。ビシュケクを出発して湖を時計回りに一周し、またビシュケクへ戻るという計画である。そこからカザフスタンを抜けて中国へ向かう。湖の東端にも越境地点があるにはあるのだが、大使館に尋ねたところ第三国の旅行者には開かれていないらしいので湖を当初のルートに組込むことはできなかったのだ。

だからこれから書くのは、前進も後退もない、ただの余談である。

出発の前日にオランダ出発以来伸ばし続けていた髪を切ってもらう。翌日必要なだけの荷物をパッキングして自転車に積み、Tシャツにショートパンツという格好で出発した。すぐにビシュケクの市街地を抜けてしばらく平坦な農作地を走ると湖へと抜ける渓谷の道につながる。道中の桜が咲き始めている。ビシュケクは海抜約800mなのでここから少し上らなくてはならない。ビシュケクから湖畔までは200kmほどある。山に入る手前でキャンプして次の日に辿り着いた。

天気は快晴で日差しは肌を焼くほど強いが空気は少し冷たく、木々も大地もまだ緑が少ない。数週間前にタイムスリップしたかのような感覚である。右手を青い湖に、左手を急峻な山々に挟まれたまっすぐな道をまっすぐ走る。ここは右側通行なので(結果的にではあるが)時計回りにして正解だった。あたりでは牛、馬、羊、ヤギ、ロバといった家畜たちがそれぞれのペースで草をむしっている。人間や車の数よりも遥かに多いので彼らの世界に入りこんできたかのようである。そこでは時間の進み方も聞こえる音も異なる。牧歌的という言葉はまさにこのようなようすを表すのだとふと考える。

この日は早い時間に湖畔でテントを張った。しかし水辺まで近づくことはできない。遠くから見ただけではわかりづらいが、湖の際は湿地のようになっていて低木が密生しているのである。食事をつくって食べ、日が落ちる前にテントに潜り込んで日記を書く。美しい星空の下、騒がしい蛙たちの鳴き声を聴きながら眠りについた。

まだ日が昇らぬうちに目が覚める。とにかく寒い。用を足しに外に出るとテントの表面が霜で覆われていることに気づく。ジャケットをもう一枚着込みスリーピング・バッグのチャックを締め上げて二度寝を試みた。次に起きたのは強い朝の日差しの中。いつの間にかテント内はサウナのように熱気で満たされ、さっき見たはずの霜はおろか濡れた痕跡さえなかった。気温差の激しい典型的な内陸性気候である。

イシク・クルは北岸と南岸で若干性格が異なる。北岸はソ連時代から保養地として開発が進み現在も観光色が濃いのに対し、南岸はよりいまだドメスティックな雰囲気が強い。もちろん北側においても住人の大部分はキルギス人なのであるが、見かける住居のスタイルはロシアの影響を受けたものらしい。基本的に町や村は宿場町のように幹線道路に沿って発展している。住居は前庭と中庭をもち、中庭を囲むように母屋、納屋、家畜小屋、便所、台所などが配置される。いわゆる「廊下」に該当する空間はなく、別の部屋に行くためには必ず中庭に出なくてはならない。壁は白く装飾を施された窓枠や門は決まって鮮やかな色で塗られている。水色が主流であるが赤や緑、または違った色が組合わされることもある。その日は天気がよかったため前庭の柵にたくさんの絨毯や座布団が日干しされていて、なんとも愛らしい風景であった。子どもたちは私を見ると必ず大きな声で呼びかけてくる。老人たちは静かに微笑みながら私を見て頷く。「仕事で来たのか」とよく尋ねられた。暖かくなってきたとはいえ観光のシーズンにはまだ早い。それに彼らの多くは自転車で旅をするという概念を持ち合わせていらしい。私のことはせいぜい日本から来たボランティアか中国の旅商人くらいに思っているのだろう。

先を急ぐのがもったいなく感じられてのんびりと進むことにした。しばしば立止まって景色を眺めたり人と話したり、たまには動物に話しかけたりもした。日没の二時間前には走るのをやめ、時間をかけてテントを張る場所を吟味した。寝床の支度が終わったあと食事の準備をして、夕日が沈む速さに合わせてゆっくりと夕食をとる。この日は広い牧草地の真ん中で眠った。朝起きると朝食をとりに来た馬たちに囲まれていた。彼らに押し出されるように急いで支度をして出発した。

やがて道は湖の東端を迂回して南下し、しばらくは湖を離れることになる。道の両脇には終始きれいに並木が整えられているのだが、どれを見てもカラスの巣だらけである。近くを通るとわざと目の前を低空飛行したり嫌味な声で一斉に威嚇してくる。二羽三羽ならまだしもとにかく数が半端ではない。一気に襲いかかられたらひとたまりもないのではないか。ヘルメットを置いてきたことをひどく後悔することになった。

天山山脈に突き当たった麓に位置するのが州都のカラコルという街だ。ここで古い商人の家を改装した宿に泊まることにする。母屋の一階が家族のスペースで二階に客のための部屋がある。部屋は極端に狭いが家具や装飾品に味があっていい。両者の空間は一階の食堂を共有スペースとしてつながっている。納屋にはソ連時代の軍用ジープや用途不明な古い道具が乱雑に放置されていた。

翌朝必要なだけのものをビシュケクのバザールで買っておいた軍用リュックに詰替えてマルシュルートカ(乗合バス)に乗込む。行き先はアラティン・アラシャン(「黄金の温泉」という意味である)と呼ばれる温泉地帯である。登山口でバスを降り深い渓谷の中を歩いていく。強健なキルギス人に同行させてもらったので予想より早く目的地の山小屋に辿り着くことができた。ちなみに私は歩くのが好きではない。走るのは嫌いである。もっとも好きな移動手段はオートバイで、実は自転車も大好きというわけではない。そして他人が運転するものは全般的に大嫌いというひねくれ者である。

山小屋は標高約3,000mに位置する。二つの大きな渓流が交差する開けた草原のような場所にいくつか小屋が離れて建っている。それらは旅行者用のペンションだったり温泉浴場だったりする。この時期はまだ寒く所々雪も残っていて、トレッキング客も多くはないしいくつかのペンションは閉まっている。この日の観光客は私一人だけであった。ほかにここで働いているのが四人いた。

部屋に荷物を置いてすぐさま一風呂浴びに行くことにする。泉質は透明で匂いはないがほんの少しだけ湯に滑らかさがある。雲仙普賢岳に住んでいたことのある私はまさしく地獄のように濃いとろんとした湯が好みなのだけれど、久しぶりの温泉(ギリシャぶりだ)、ましてや湯につかる機会さえほとんどないわけだから文句は言うまい。

そういえば東京で一人暮らししていたときは毎日欠かさず浴槽に湯を張って映画を見たり音楽を聴きながら半時間くらい浸かっていたものだ。徹夜続きでもひどく酔っているときも風呂に入らずにはうまく眠れなかった。それは私にとって趣味とか習慣というものを超えた行為だと思っていた。トルコでムスリムたちの礼拝に参加して「なんか似てるな」と思った。オランダに住んでいるときはよく同居人と揉めたものだ。彼らは言った。どうして毎日風呂に入るのかと。シャワーじゃ駄目なのかと。僕は的確な答えが見つけられずにこう言った。もし欠けてしまったなら自己とか日常が損なわれる、そういうものなのだと。彼らの理解できないというふうな顔を思い出して笑った。

温泉は今回の小旅行の大きな目的であったが、ひとつ私にはどうしてもやらなくてはならないことがあった。自転車旅を始める前から、いや日本を発つ前から決めていたことだ。それは母方の祖母の埋骨である。

ここで余談の余談、祖母の話を少ししてみたいと思う。

高校入学以前の私と祖母の関係はごく普通なものであったが、長崎市内の高校に通学するために祖母の家に居候することになった。祖父はすでに他界していたから二人暮しである。それまで寝たきりとまではいかないまでもいかにも老後といった様子だった祖母に、再び子育てを強いるというかたちになった。毎朝早起きして私の朝食と弁当をつくってもらい、掃除も洗濯もすべて任せきりだった。かなりの負担であったはずなのに祖母は見る見るうちに元気を取り戻していったから不思議である。祖母も周りから若返ったと言われるようになったと嬉しそうに語っていた。高校生の私でも息が切れるくらい長く急な坂道を、腰を曲げて下ったり上ったりする姿は今でも鮮明に覚えている。一年後には母と弟たちも移ってきて一緒に暮らした。それでも朝早くから夜遅くまで働く母に代わって家族を支えてくれたのは祖母である。二年前の春、三男が無事に卒業し大学合格を果たすまでは。合格発表の直後、祖母はまるで緊張していた糸が切れたように倒れそのまま入院してしまった。急性白血病だった。

祖母は昭和二年に長崎に生まれ生涯のすべてを長崎で過ごした。これだけで気づく人もいるかもしれないが、祖母は一応被爆者である。一応というのは被爆者にはいくつかの分類があり、原爆投下の瞬間に爆心地付近にいた人を「直接被爆者」とするのに対して、祖母は「入市被爆者」というものに該当する。長崎原爆投下の翌日、彼女の父とともに長崎市内の親戚を探しに出かけたそうだ。私が祖母の若いころについて知っているのはこれだけである。思い返すと祖母が自分のことを話したり自分のためを考えたりすることはほとんどなかった。他人の心配ばかりして他人の幸せのために自分を犠牲にするという、なんとも慎ましい人生であったように思う。

発病後はあっけないものだった。闘病する体力などもはや残されておらず、ただできる限りの延命治療を施された。一度ばらばらに散らばった家族が再び集まり交代でそばについた。ある日二人きりのとき申し訳なさそうに祖母が私に言った。「こがんなるとやったら原爆手帳ば取っとくとやったねえ」と。祖母は規定によると被爆者健康手帳の受給資格をもっているが、必要な数の証人を見つけられなかったため申請を諦めたという。手帳をもっていれば医療費は全額国費負担となる。祖母はこの期に及んでまで家計の心配をしていた。

祖母は目に見えるように衰弱していった。食べることができなくなると舌にカビが生えたので歯ブラシでこすってあげた。もともと遠かった耳がさらに悪化して耳元で叫ばないと聞き取れなくなった。話すことが困難になり目や口元だけで何かを合図するようになった。なんだか幼児の成長記録を巻き戻して見ているみたいだ、と思った。やがて意識が無くなるともうテープの残りはあとわずかである。肺炎を併発して意識もないのにただ苦しむ姿を見かねた私は言った。そのときも二人きりだった。「もうよかぞ。ばあちゃん。死んだら世界のどっかきれいな場所に埋めてやるけん」。驚いたことに祖母は目を少し開き私を見て微笑んだのだった。それが最後の会話となって数日後祖母は他界した。火葬したあとにお骨の一部を小さな壺に分けておいた。そのときからなんとなく今回の旅はある種の必然性を帯びていったのではないかと思う。

アラティン・アラシャンの翌朝は曇りだった。キッチンで朝食をとりながら本日の計画を立てる。行きたいと考えていたさらに上流にあるアラキョル湖(Araköl)が積雪や雪崩でまだ通行不能ということなので、急遽予定を変更して支流のほうへ歩いてみることにした。そこで道を尋ねたのだが返ってきたのは古い巻物に描かれてそうな不思議な絵であった。山を表す放物線がいくつか並べられ、その間を縫うように線が引いてある。やりとりを繰り返すうちに彼らが地図を描く能力をもっていないことがわかってくる。聞いた話では地図を読むという技術は軍の機密事項であり、最近まで情報統制のために正しい地図すら公表されていなかったということである。読めないのだから描けるわけがない。最終的には写真を見せながら「これがあの山で…」と説明された。自称ガイドの彼らに道を訊くのは諦め、小さなショベルだけ借りて一人で歩き出すことにした。

空は相変わらず低く重たい雲で覆われていて、向こう側にある太陽の光がくすんだむらをつくりだしている。今にも雨か雪が降り出しそうな空気だった。ところが雲以外のものの輪郭はやたらとはっきりしているのだ。あたりに転がる岩の肌とか雪に覆われた山の稜線、木々の細やかな葉先などが、見渡す限り遠くのほうまで鋭く現れていて、ぼんやり光る空と奇妙な対比をなしている。息が切れ軽いめまいがした。高度に慣れていないからなのか、この変な天気のせいなのか。まるで起きた後も鮮明に思い出せる夢を見ているようだと思った。曖昧な空と不気味なまでに明瞭な大地のあいだを重い足取りで登りつつ、祖母の家の前にある急な坂道のことについて考えていた。

歩いているとこれまで見たことがない高山の生物に遭遇した。花は白と黄色の二種類が咲き始めていた。こんなに深い山の奥にも春は来るのだ。申し訳ないと思いながら一輪ずつ拝借してたばこの空箱にそっとしまっておく。

雪の上にはいくつかの形の違う足跡が残されていた。目で確認できたものはオコジョとアナグマ。もっと大きい足跡の持ち主はオオカミやクマだろうからできればお目にはかかりたくない。

最初はうっすらと残されていた道がだんだん途切れていきやがて完全に消失する。少し戸惑った自分を嘲笑いたくなる。道がなければ好きなように進んでいくだけだ。二時間くらい歩いたころに急な斜面が終わり、いくつにも川が分岐して中州状になった高原に出る。500mは登ったろうか。さらに丘の頂上まで登りきるとそこから眼下に谷間を一望することができる。今まで後ろを振り向くことなく登り続けていたので、いきなり目に飛び込んできたその風景は圧倒的であった。丘の先端に大きな岩があった。ここだと思った。

さっそく墓の築造にとりかかる。キルギスの風習に倣って石を積み上げることにした。石の数は検討がつかなかったので祖母の年の数にした。軍用リュックの中身をすべて取出して丘の下を流れる川まで降りていく。リュックの中に石をできるだけ詰めたあともとの場所まで崖を登る。石は風や積雪に耐えうるようにある程度重いものでなくてはならないから、一度に運ぶことができるのは六個から八個が限度だ。ソ連軍製のリュックは十分な強度を備えていたのだが(ソ連軍は実際にこういう訓練をやっていたのかもしれないと思うほどに)、すぐに私の腰が悲鳴を上げだした。これは大変な重労働だった。何しろ一個が一年分の命に相当するわけだから。

それでも私はその作業を繰り返すことが楽しかった。ひとつひとつの石にはそれぞれの個性があるということに気づく。まずその成分によって大まかに分類することができて、これは砂岩、凝灰岩、安山岩、花崗岩といった科学的な類型のことである。それぞれ密度や手触り、そうなりやすい形などの性質が異なる。たとえば金属質なものはずっしりと重く丸みを帯びていて表面はつるつるしている。触るとひんやり冷たい。粒が大きいものは案外軽くざらざらしていて形も歪、そして色に富んでいる。砕けやすいものもあるので注意が必要だ。ひとつひとつの石と慎重に対話を繰り返し、無数にある石の中から意味あるものを選び取っていく。または選別した石たちに特別な意味を与えていく、といったほうが正しいかもしれない。選ばれた石はリュックの中に入れられて丘の上に運ばれる。科学的説明によると私がした仕事の分石の位置エネルギーが増加した、というだけのことかもしれないが、ここで重要なのことは、それは存在論的な意味でさっき川に転がっていたものとはもうまったく別のものになってしまった、ということだ。

すべて運び終えるのにも二時間かかった。次に積み上げる作業だがこれが予想以上に難しい。どれも形が違うし平坦で平行な面など皆無である。どうやっても隙間ができて不安定になってしまう。まるで人間社会の縮図みたいだと思った。そう思うと完璧を目指すのはばかばかしくなって、不細工ながらもすべての石を積み上げることができた。

さていよいよ埋骨である。大きな岩の下に小さな穴を見つけたのでシャベルをつかってその周りを掘る。芝生の根が強く張っていたのでなるべく傷つけないようにしなけらばならない。骨壷の蓋を開けてみようとしたが粉がぱらぱらと落ちてきたのでやめた。裁縫の得意だった祖母が私のデジカメ用に作ってくれた巾着袋にお骨と様々な国の硬貨、それからトルコでもらったテスビと香水の小さな瓶を一緒に入れる。それを穴の奥のほうに入れてきれいな水晶石で穴の入口を閉じて掘り起こした土を元に戻した。最後に花とみかんを供えた。すべての作業を終えると急に腹が減ったのでパンにチョコレートを塗ってかじった。宿で入れてきたミルクティーが甘くて疲れた体に染みた。それでは足らずに供えたばかりのみかんも食べた。

しばらく岩の上に寝そべっていた。いつの間にか曇っていた空に晴れ間が見えていた。初めて人の墓をつくったけれど悪くはないなと思った。ただ悔やみに悔やみきれないのは、生きて連れて来られなかったことではあるが。墓作りが最初で最後の孝行とはこの上ない不孝者である。せめてもの罪滅ぼしに母を墓参りに連れてこようと考えながら山小屋へ戻った。温泉へ行きたっぷりと時間をかけて体をほぐす。音楽を適当に流しながらコニャックを飲む。このまま体が湯の中に溶けてしまえばいいのにと思った。

次の日は雲ひとつない晴天だった。遠くの山が然るべき不明瞭さをもって現れていた。午前中にもう一度墓参りをすると私の前に参拝者があったようだった。小さな糞が積み上げた石の上にのっていた。いつも誰かが来てくれるなら安心である。写真を撮ったり寝転んだりして宿に戻り、最後の温泉を楽しむ。次に風呂に入れるのはいつだろうか。この旅を始めて正直風呂がなくても平気になった。私の信心などその程度のものだったということだ。下山しながら思った。たいして真摯な仏教徒でもないのに高額で窮屈な寺の納骨堂に入って死後に及んでまで意味不明なお経なんて聞かされるよりもこっちのほうがずっといいじゃないか。日本に帰ったら仏壇の前で手を合わせてきいてみようと思う。

そういうわけで祖母は今、天山山脈の懐に抱かれて安らかに眠っているはずだ。また一つ帰ってくるべき場所が増えてしまった。

カラコルの町に戻った後バザールに出かける。山小屋での食事があまりにひどかったので新鮮で栄養があるものを腹いっぱい食べたかった。レストランは私には量が少なすぎるので自炊することにした。キルギスのバザールは日本のスーパーとは違って(もちろん近代的なスーパーマーケットやコンビニ的な売店もありはするが高いうえに新鮮でないものが多い)、ひとつの店があるひとつの専門性をもっている。たとえば肉、野菜、穀物、乳製品、駄菓子、パン、日用品…。同じ専門の店はどういうわけか一つの領域に集合していることが多い。つまり欲しいものをあらかた揃えるためには、バザール中を練り歩かなくてはならないのだ。店舗建築にも様々な様態があのだが、トラックのコンテナを再利用したものが多い。移動が簡単でサイズがちょうどいい上に扉を閉めれば防犯上も問題がない。ただ路地は狭く迷路のように入り組んでいるので初めて来たときはどこに何があるのかさっぱりで、旅行者には利用しづらいかもしれない。そこで私なりの買い物の仕方を紹介しよう。

まず何かひとつ買う。だいたいこのときに「中国人か」「いや日本人です」「仕事か」「旅行者です」「他にいるものあるか」という流れになるので次に欲しいものがどこにあるか尋ねる。すると道を教えてくれたり親切な人は店を空けてまで連れて行ってくれる。こうすると皆どこが品揃えがいいとか安いとか知っているので間違いがない。それを買い物が終わるまで繰り返せばいいわけだ。もちろん時間があれば気のままに歩くのも楽しい。カラコルについた日も来ていたのでもう顔を覚えられていた。「温泉はよかったか」とか「次はどこに行くのか」とかいう簡単な世間話もできて楽しい。スーパーマーケットにはない人とのコミュニケーションがちゃんと残っているのだ。

帰り道に近くのロシア正教会に寄る。古びた木のファサードとずっしりしたプロポーションが特徴的だ。内部は白を基調として縁取りは青で統一されていて、軽やかで明るい印象である。信者が祈りを捧げていた。皆ロシア人である。キルギス人はたいていムスリムなのだが摩擦なども感じることなく共存しているように見える。かといってロシア人とキルギス人のカップルは一度も見かけたことがないのだけど。

キッチンも洒落ていて建具はすべて当時の職人によるもの。調理器具も古いがつくりがしっかりしている。

鶏のもも肉を煮込んでボルシチのようなもの(ビートを見つけることができなかった)をつくった。それから米が三合。もともと大食漢ではあったが自転車旅を始めてさらに食欲が増した気がする。

カラコルを発ち湖の残り半分、南岸を走る。しばらくすると入り組んだ湖岸沿いの道になる。美しい山並みを背景として海岸段丘ならぬ湖岸段丘の上に村がたっている。北岸よりも地形が豊かで走っていて飽きることがない。

その日はタムガという小さな村の外れにあるビーチでキャンプをした。日が暮れてくると背後にそびえる山の雪の部分だけが燃えるように赤く染まる。

前面には七色に光る湖。まったく贅沢な夕食の時間だった。

その夜は天体観測をした。テントの入口を開けたまま仰向けになってそこから顔を出す。これは寒くもなく虫もいない季節しかできない。日が完全に暮れたあとも空はほのかな明るさをもつ。その明かりが失われる速さは夕日が落ちる速さに比べれば微小で目でとらえることは難しいのだが、明るいものから次々と灯っていく星の光によって闇の深まりを認識することができる。日没から約二時間後、闇の成長は一応の完成をみせてほとんどの星が出揃ったようだった。それから月が出てくるまでが星空のクライマックスである。コニャックを飲み寝袋に包まっていると体がぽかぽかして気持ちがいい。ぼんやりと目を泳がせながら星について考えごとをする。なぜ星座は常に相対的な位置関係を保っている(ように見える)のか。オリオン座の四角の中に並ぶ三つの星が乱れたところをまだ見たことがない。もしかしたら少しずつ形を変えているが人間の命というのがあまりに小さい単位なのかもしれない。また夜空の端にある正座が球面投影的に歪んで見えるのはどうしてなのだろう。遠く離れた星からやってくる光は近似的にほぼ平行となるはずではないのか。まだまだ知らないことが多すぎる。たまにうつぶせになって湖のほうを見やると遠くを走る車のヘッドライトに照らされて湖面が白いゼリーのように浮かび上がった。気づくとコニャックの残りがわずかとなっていたので目を閉じることにした。その日は流れ星を二つ見た。一つは小指くらいでもう一つは中指の先から手首くらいはある大きなやつだ。

タムガの先から数十kmの間がもっとも道と湖岸が接近していて、また水質もよい。道を下りて水辺に立つと近くのほうはただの透明なのに少し向こうの水面はものすごく濃い色をしている。今までに見たことがない不思議な青だ。まるで底に色ガラスを敷き詰めたかのような奇妙な硬い質感がある。対岸の山は地肌の部分が空と湖に溶け消えて、白い冠だけが塗り固められた雲のごとく静止して浮かんでいる。本当に絵画のような風景だった。

小さな村には水道が整っていないことも多く、道端にある共用の井戸を利用する。水汲みはもっぱら子どもたちとロバの仕事である。私も水を頂こうとポンプを上下に動かすがうまくいかない。遠くで見ていた地元のおじさんがやってきてやり方を教えてくれる。「押しっぱなしにするんだよ。日本人はそんなことも知らないのか」といってにやりとして見せる。

一度湖岸に迫った山の裏側にある台地のほうへ回りこんだ後、道は再び湖に出会う。このあたりは自然保護区となっていて、右手には畑でなく林が広がっている。林を抜けるとひらけた水辺の草原に出た。そこにぽつんと立っていた木の側にテントを張ることにした。地面は少し湿っていて、ところどころにある白い粉のようなものは塩である。イシク・クル湖はわずかに塩分を含んでいるのだ。湖のむこうに光る街の明かりは湖の最初の街バルックチュだ。

目が覚めるとロバに乗った羊飼いがいた。彼にバルックチュまでの距離を尋ねると22kmだと答えた。本当に22kmだった。地図は読めないのに数字には正確らしい。

私は同じ道を二度も走るのは嫌いだ。街で電車はあるか訊いてみたところ「ビシュケクまでは180kmだ。その自転車サムライスキー(ロシア語で”サムライ的”。意味不明だが)なんだろ。だったらそれで行けよ」という謎の挑発を受けた。しかし大の負けず嫌いである私は引き下がることができない。

どう計算しても日没までに走る距離としては長すぎたが、その辺の畑でキャンプする気がまったく起こらなかったのでひたすらペダルを回し続けた。湖を離れ山を下りると、いつの間にか春が通り過ぎて夏が腰を据えていた。風景は目がくらみそうになるほどの緑に包まれ、咲きごろだった桜はすでに散り始めていた。この十日間で必要以上に時間が進んでしまったみたいだと損した気分になった。

気温は三十度を超えアスファルトからの熱射でふくらはぎが腫上がった。久しぶりに水を浴びるように飲んだ。羊たちに倣って木陰に入るとひんやりして生気が戻ってくる。なんとか日が落ちる前に200km以上を走り抜いてビシュケクに帰還した。

こうして湖をめぐる短い旅は終わった。ぐるりと廻って同じ場所に帰ってきただけの、ただの余談である。それに結局は祖母の話も、行為の相手がいないという意味においては、自分から自分自身に返ってくるだけのことでしかなかったのかもしれない。どこにも進まない自己完結的な物語。変わったことといえば、自転車のフロントバッグから小さな巾着袋失われたことくらいか。でもやってよかったと思う。私は基本的に何かを獲得する物語よりも何かを失う物語のほうがずっと好みなのだ。

Bishkek – Bishkek

8791 – 9628 / 837km

追記

祖母の病気については誰も口にはしなかったが、やはり放射能の影響があったのではないかと私は思う。今回の原発事故で多くの人が重い被曝を経験したそうだが、あれから一年以上がたつというのに被曝者への支援に関する法整備がまだなされていないというのは一体どういうことなのだろう。ちなみに被爆者健康手帳が初めて交付されたのは原爆投下の12年後(祖母が取得資格を得たのはさらに8年後、それに結局は支援を受けることすらできなかった)である。戦後という状況下を考慮してもあまりにずさんではないか。こういう歴史や被爆症認定集団訴訟、被曝の影響について知っている人がどれくらいいるのだろう。地震で家や仕事を失った人が病気になったとしてどうやって治療費を捻出するのだろう。第一病気になってもそれが放射能によるものなのかどうかは確実な判断ができないのに。ただ一つ言っておきたいのは、私は祖母の最後について少々納得がいかないところがあるということである。

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